【DO!BOOK・ページリンク】
0000237001   59 / 85

BOOKをみる

10秒後にBOOKのページに移動します


- 57 - 言えない自分がそこにいたのを今ははっきり思い起こすことができる。 誘ってくれたのは高校からの友人の故鈴木宏幸氏だった。元団長である。1 年目から参加 した彼が「時間があるなら是非一緒にやろう。人生が充実すること請け合いだ」とか何と か電話の向こうで言っていた〜本題からは外れるがもはやその声を聞くことは永遠にない。 しかし声音ははっきり思い出せる〜それから「うまい演奏を期待しちゃいけない。でもこ れから作っていく喜びを感じることがきっとできる」とも。半信半疑で参加してみると果 たしてそのとおりだった。取り壊す前の青年婦人会館(あいホール)の音楽室で15 人程度の 集まりで練習は行われていた。こういっては何だが自分程度の力量の者がこれはひどいと 思ったくらいだから本当にとても下手な集団だったのだがそれでも不思議なことに練習は 続き、大変な苦労なのだが練習会場や発表の場の確保の活動が継続して行われていた。更 に驚いたことに格調高い趣意書や立派な規約が設立当初から存在していた。これすべて設 立メンバーをはじめとする先輩諸兄の尽力に他ならない。プレイは下手でも社会人として は皆立派な方々で理想を持ち、曲折を重ねて少しずつそれに近付く決意があったというこ とではないか。多くは引退され、中には物故者もおられる。感謝の念に耐えない。 定期演奏会を、との話は2 年目の終わりごろに出てきたように思う。そんなことができ るのかと思ったがその後、長くを待たずに実現してしまった。いつの間にか自分も後輩を 誘ったり運営に少し参加したりしていた。しかし自分に限らず多分まだ小さかった所帯の 中で全員が何かをしていたのだと思う。宏幸氏が「うちのバンド、会社よりやっているこ とが凄いよ。これぐらいやれば会社もきっと良くなるんだけど」と言っていたのが思い出 される。第一回定期演奏会のフイナーレが終わると盛大なカーテンコールを受けた。確か 指揮者が5 回くらい出入りし、やっとアンコール曲に移ることができた。圧倒的な感動だ った。その後のずっとレベルアップした定演でもそんなことは起きていない。感動の質が 違ったのだと思う。 自分はなぜ団に参加したのか、なぜ続けてこられたのか、いや続けてきたのか。その答 えは多分入団当時の気持ちにある。村上龍は今でも好きだ。バラエテイ番組は息抜きには 少しは良いがしかしそれ以上のものではないのではないか。今になっても何かを成したい し責任の一翼を担いたい。それはたとえ技量及ばずとはいえども自ら響きを作り出す団の 活動でも同じだ。最後にそれもこれも常任指揮者の大役を長く担ってくれた塚本好司先生 のお力の賜物、と改めて訴えたい。周知の事実で重ねて言うことはないとは思うが、しか しそれでも創立当時のメンバーは極めて人間的なお付き合いが許された。奥様とお子様〜 何を隠そう修也先生は当時小学校1 年生だったはずだ〜とも親しくさせていただいた。た だただ感謝申し上げたい。そして今一度旧友の名を記すことを許されたい。「宏幸君、皆立 派に続けているよ。応援してください」